「なぜ、学ぶのか?」について考える

キャリアの手助け

突然ですが質問です。

『私たちは何故、学ぶのでしょうか?』

私は大学院で教育について深く学んだとき、教育の道に何故興味を持ったのだろうと自問自答しました。

そのときには過去にボランティア活動で少年自然の家であったり、現在の一企業の採用・教育担当として人を育てることに従事しているから教育という分野を深めたいと思ったのかなと自己分析しました。

しかし、様々な視点から『教育』というものを捉えてみると、まず自分自身が『何故、学ぶのか?』という視点が必要であることに気づきました。

“ 私は何故、学ぶのか? ”

そして私はこう考えています。

“ 前向きな世界をつくるために、いま学ぶ ”

自分なりに、この答えに行きつきました。

今回は自分なりに見つけた『前向きな世界をつくるために、いま学ぶ 』のではないかという私の想いを綴りたいと思います。

生徒・学生の声(気持ち)

『あなたは何故、学ぶのですか? 』

こう問いかけられたとき、自分だったらどのような答えを返しますか?

私は採用担当としてやボランティア活動で関わってきた児童・生徒・学生たちに、この問いを投げかけてみると以下のような答えが返ってきます。

■ いい大学に行かないといけない
■ いい就職をしないといけない
■ お金を稼ぐため
■ みんながやっているからなんとなく
■ 親に怒られるから
■ 赤点を取りたくない

この答えに対して私の感じたことは…

なんて受動的で、後ろ向きな捉え方をしているのだろうか?

ということです。

「何故、学ぶのか?」という問いかけに対して、先ほどのような答えが返ってくるにも関わらず、みんな一生懸命に勉強していますし、テスト勉強に向けては寝る間も惜しんで勉強したりもしています。

でも、心の中では「なんでやりたくもないことをやるんだろう」と思っているのではないかと感じます。

そして「そこまでして学ぶ必要ってあるのかな?」とも…。

私の場合は中学時代から部活に明け暮れ、その部活のメンバーとバカなことをやりながらも大会を目指したり、友達の輪が広がって、TVゲームをしたり、野球をしたり、漫画を読んだりと人と関わって遊んでることが自分にとって楽しいことでした。

そして、好きなことをばかりをする毎日を送っていました。

今になって振り返ると、あのとき勉強をしておけば良かったなと思うことがあります。私自身は後悔していませんが…。

ただ、子どもたちの大多数が勉強を嫌々やったり、ネガティブに捉えてしまうのか。

今回は『勉強という名の恐怖』と『本来あるべき勉強の姿』という2つの視点から考えたいと思います。

勉強という名の恐怖

先ほどは「何故、学ぶのか?」という問いかけをしましたが、少し質問を変えてみます。

『あなたは勉強が好きでしたか?』

こう問いかけられると、どのように答えるでしょうか。

■ 大嫌いだった
■ 嫌いではなかったけど、好きでもなかった
■ 体育は好きだけど、勉強は嫌いだった
■ 国語は得意だったけど、英語は苦手だった
■ 授業は楽しかったけど、テストが嫌だった

私の経験上では、このような答えが返ってくることが多かったように思います。

ただ単純に勉強が嫌だったというわけではなく、「テスト」であったり、○○の教科は苦手といった勉強に対しての捉え方も様々です。

そして私は、先ほどお伝えしたように学生時代は「部活に明け暮れ、ゲームなど楽しいこと」しかしたくなったため、勉強というものを全くしませんでした。

そんな生活をしているので当然、親からはこんな言葉が飛んできます。

あんた、そんなことばかりしてないで勉強しなさい!

私の中で「日本中のお母さんが子ども言うセリフランキング」があるならば、No1であろうこの言葉をずっと言われてきました。

そして、そんなことを親に言われ続けてもその忠告を無視し続けました。

その結果は想像に難くなく、テストの点数は得意教科以外はボロボロ、英語は赤点で追試といった状態でした。

この結果から親や先生から叱られ、ますます勉強が嫌いになっていくという悪循環になりました。

私はたまたま陸上競技という打ち込める部活で成果が出ていたので、スポーツ推薦という枠組みで高校、大学と進学することができました。

楽観思考もあり、好きなことやって勉強しなくても進学できるじゃん!って思っていたんですよね。

ただ、楽観思考の中でもテスト返しの都度に襲ってくる不安として当時は…

■ このまま就職になるのかな?
■ いや、そもそも就職すらできないのかな?
■ そうしたら俺の人生って終わるのかな?

と思っていました。

そして、勉強というものが恐怖になりました。

『あなたは勉強が好きでしたか?』 と問いかけられたとき、振返ってみるとどのようなことが思い浮かぶでしょうか?

そこに恐怖や不安といった感情はなかったでしょうか?

もしそういった思い出があったなら、「何故、学ぶのか?」について考えてみるきっかけになるかもしれません。

本来あるべき勉強の姿

先ほどお伝えした通り、私にとって「勉強」というものは恐怖でした。

そして、その「恐怖」に対して立ち向かうときに「自分って何故、学ぶんだろう」と考えました。

しかし、自分ではその答えは出てきませんでした。

自分で答えが出せないならば人に頼ろうと、たくさんの友人を集めて「自分たちが何故、学ぶのか」を考えてみればいいんじゃないかと思いつき、自分たちで「得意分野:好きなこと」を教え合う会を設けてみました。

英語が得意なら英語を、数学が得意なら数学を、勉強に限らず食べられ野草についてはその野草をいった感じです。

この「教える」のも「教わる」のも同年代であるといったことを活かして、一方的に知識を押し付けるのではなく、グループで話し合ってみたり、その会が終わった後は教わった人も教えた人も一緒に振り返ることをしました。

これをやってみた結果、勉強って意外と同じ立場の人同士でやってみるとお互いに多くの学びが得られました。

例えば、国語がめちゃくちゃ好きな人が「国語ってこんなに面白いんだよ」と「自分の好きなこと」を熱心にプレゼンすることに快感を覚え、自分の好きなことを人に伝えることが勉強に繋がり、それって楽しいことなのかもと思うようになりました。

そして「何故、学ぶのか」について深く考えさせられたエピソードは、社会が好きだった友人の「地図の話」でした。

「日本地図」といえば、伊能忠敬が幕府から依頼(命令)されて作られました。 当時は敵国(国内武将)や外国から攻められることを懸念して、詳細な地図を必要としたようです 。

しかし、何故必要かだったのかという点については「人類が生きていく上で、生活をもっとより良くするため」だったのではないでしょうか。

日本地図に関しては危機に迫られて開発し、生み出されたものかもしれませんが、観測技術や計算、語学力などの各学問の要素をフル活用して成し遂げられました。

そして、友人の「地図の話」の最後の言葉は以下の言葉で締められました。

全ての学びは全て「人類が生きていく上で、生活をもっとより良くするため」であり、学問というものが何故あるかというと、人間がもっと生活をより良くするために発明するための要素を伝えるためである。

私は勉強が嫌でしかたなかったとお伝えしましたが、この話を聞いて間違いだったのではと気づきました。

この友人の話から “ 学びとは、楽しくないものではなく、ワクワクしていたもの ” ではないかと…。

勉強(学問・学び)というのは、本当は人間の生活をもっとよくするためのものであって、人間を恐怖に陥れるものではないのだと感じました。

過去の記憶を振り返ってみると、小学校の1年生のときに初めて宿題というものが先生から出されたことが思い出されます。

ひらがなの練習をしてこいとか、足し算をしてこいというプリントが配られたように思います。

そのとき、人によって感じ方は違うかもしれませんが、私はワクワクしていました。

家に帰って連絡帳を親に見せ、「今日初めて宿題が出たんだ!」とイキイキして報告して、一目散に取り組んでいたと思います。

しかし残念ながら、歳をとって順位やテスト、単位、入試といった現実やその現実に対する親の威圧な態度などによって「恐怖によって学びが支配されるようになっていった」状況があるようにも思います。

それでも核となる考え方は、勉強(学問・学び)というのは人間が人間の生活をもっとよくするためのものであって怖れるものではないはずなんです。

本来あるべき勉強の姿とは「自分を劇的に追い込むもの」でなく「寄り添って味方になってくれるもの」だと思うのです。

私は友人たちとの学び合いやスポーツ推薦ではあるものの、高校、大学という場所で知り合った人たちと触れ合う機会がありました。

そして「自分って何故、学ぶのだろう?」ということに対して、勉強というものが自分を救ってくれるもの、人間の生活をもっとよくするためのものであることだと考えるようになりました。

「何故、学ぶのか?」という問いに対して、楽しい、面白いと思っていた方はもしかしたら、始めからこのような思考になっていたのかもしれませんね。

教わる側の姿勢がつくる未来

私自身、大学時代に「勉強(学問・学び)が自分を救ってくれるもの、人間の生活をもっとよくするためのもの」と考えたことから、自分の学んだことを活かしてもっと世の中の役に立ちたいなと思うようになりました。

しかし、この「世の中の役に立いちたい」という想いも漠然としていて、言葉にするのも恥ずかしい夢物語のような抽象的な話です。

ここでご紹介したい「令和元年に内閣府が実施した「子供・若者(39歳まで)の意識に関する調査」」という、面白い調査結果があります。

この調査で「自分は役に立たないと強く感じる」と回答した人が約半数を占めました。

そして、「社会のために役立つことをしたい」回答した人が約7割という結果になりました。

この結果をどのように受けとるでしょうか?

私は「社会の役に立ちたい」が多いのは自分もそうだし、何となく今まで接してきた人たちのイメージもあって妥当かなと感じましたが、「自分は役に立たない」と半数も感じるのかとその点は衝撃でした。

では何故「自分は役に立たない」と感じるのか…。

確かに自分も勉強が嫌でテストの点数が悪く、将来への不安を感じたときには「自分って役に立たないのかも…」と思っていたことがありました。

この「自分は役に立たない」について考えるとき、改めて最初の問いである「あなたは何故学ぶのですか」ここに立ち返りたいと思います。

この記事で最初にこの問いかけで「いい大学に行かないといけない」「みんながやっているからなんとなく」「赤点を取りたくない」などの声がよくあるとお伝えしました。

また私自身の考えとして、“ なんて受動的で後ろ向きな捉え方をしているのだろうか? ” と感じました。

そして、現状の日本の教育の現状を考えてみると「受け身」なんだなということを考えるようになりました。

現在の学校教育において、授業ではだんだん年齢(学年)が上がって行けばいくほど、「先生が一方的に教科書の内容を喋って、それをノートにとってテストを受ける」という繰り返しになっている気がします。

まさに予備校などはその流れそのものですよね。

別に私は、この教育システムを否定しているわけではありません。その流れの中でもコミュニケーションが起こり、学びはもちろんあるからです。

ただ、このような一方的に押し付ける受け身な教育があるからこそ、教わる側(学ぶ側)も受け身で後ろ向きになっていくのではないかと思います。

そして、このような議論は昔からなされていて、いまさら改まって考える話ではないのかもしれません。

そもそも考えてみれば簡単な話でもありますし、当然みんな気づいています。

さらに答えとしては簡単に解決する方法が出ていて、「能動的に学ぶ機会を増やす」だけでいいんです。

実際に国も動き出し、2020年度からアクティブラーニングという能動的な学びを取り入れた学習をするような学習指導要領の改訂の準備が進んでいます。

まだこの時点で改訂の段階であるというスピード感は、個人的に常々疑問に思うことでもありますが…(笑)

そして、学校もグループワークなどの学習方法を取り入れて、能動的な学びについて考えるようにしています。

しかし、どれだけ国が動いても、学校の教育制度が変わっても、残念ながら能動的な学びというのは実現できないのではないかと思います。

それは一体何故か…?

私個人の見解ですが、授業というのは「教える人」がいて成り立つものではなく「教わる人(受ける人)」がいてこそ、初めて成り立つものだと思うからです。

だからこそ、「教わる側の受ける人」が能動的にならなくては意味がないんです。

先ほどの解決策である「能動的に学ぶ機会を増やす」というのは、もしかしたらそのような機会を待っていてはダメなのではないでしょうか?

「能動的」という言葉の通り、そのような機会に自ら飛び込んでみることが必要なのではないかと…。

“ いろんな形で学びの場に参加してみる ”

この「参加してみる」という行動が1番能動的な学びだと思っています。

そして、いろんなことに参加して学んだことを学校の授業や会社の業務にも応用してほしいと思います。

■ 学校の授業:自分が参加して初めてその授業が成り立つ
■ 会社の業務:与えられたことだけでなく、自分の意思があって初めて価値がつく

このような考え方をするだけで、きっと授業や業務というのはもっと能動的なものになると思っています。

私は「教わる側の姿勢」が変わることで「自分自身を含めた社会」が変わっていくのだと思っています。

さいごに

私はこれから「何故、学ぶのか?」ということを念頭において、一生をかけて教育の分野に携わっていきたいと思っています。

また、その教育において「教わる側の能動的な学び」がキーワードになっていくとも思っています。

そして、「自分たちがこの場、この環境、この商品・、この価値を創っている」という意識を育む場をつくり、そこに共感してくれたり、応援してくれたり、一緒に活動してくれたりする人を増やしていけたらなと思っています。

この能動的に学ぶということは、何も勉強に限った話ではないと思います。

今、たくさんの就活生と関わらせてもらっている中で、よく聞く言葉は「自分の好きなこと仕事にしたい」「やりたいとができるかどうかが大事」という言葉です。

しかし反面、「やりたいたいことがない」「何が向いているかわからない」「やりたいことの見つけ方がわからない」といった声もあります。

さらには「社会の歯車の一部になる」なんて言葉も…。

能動的になるということには「夢を持ってほしい」とか「将来こういう風になっていたいというビジョンが必要」とかそういうことではないと思います。

別にそれは、ずっと探していてもいいものかもしれませんし、将来のことを少し前向きに捉えてもらえる程度でいいんです。

そして、「何事に対しても能動的になり、前向きに考える」というだけでも、きっと社会というのは良くなっていくと思います。

だからこそ…

前向きな世界をつくるために、いま学ぶ ”

と思います。

だからこそ、勉強は嫌なものではないということを取り除く捉え方が必要であり、また教わる側の姿勢が重要になってくるのではないでしょうか?

それでは今回はここまでです。最後まで読んでいただきありがとうございました!

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